榎本工業株式会社榎本工業株式会社 ENOMOTO

ENOMOTO HISTORY

黎明期明治34年 − 昭和30年代後半

遠州地方指折りの鋳造所として

明治34年 − 昭和20年代前半[1900−]

遠州地方指折りの鋳造所として

明治34年4月、榎本万次郎が浜松市常磐町にて榎本鋳造所を創業。浜松鋳造45周年史によれば、浜松の地で創業した2番目に古い鋳造所との記述がある。
当時の記録は殆ど残っていないが、創業時はタタラ、大正時代はフイゴ、やがてモーター付きの送風機を使い、キューポラ(溶解炉)へと、時代なりの技術革新があったものと思われる。
昭和元年になると、以降60余年本社を置くことになる浜松市助信町に工場を移転。昭和23年に寿鉄工の名で株式会社を設立し、3年後に社名を榎本鋳工株式会社に変更。更に昭和34年には現在まで続く榎本工業株式会社に社名変更する。

社章誕生

昭和26年[1951]

社章誕生

現在の会社の社章が生まれたのは、昭和26年5月。浜松地域の一大産業であった繊維業界向けに、榎本製四丁 杼織機(ひしょっき)をお披露目する際、何か会社の社章がないと格好が付かないとの事から、知人に頼みデザインしてもらった。
社章は、柱時計の振り子をモチーフに「これから社員皆一緒に同じ時を刻んでいこう」という願いと、織機の杼をピンと張らすための分胴(バランス)をモチーフに「経営はバランスが大事」という考え、この2つの思いを掛け合わせて完成した。

職人たちの腕のみで切り開いた時代

昭和30年代後半[1960−]

職人たちの腕のみで切り開いた時代

昭和30年代後半の従業員は30名、創業時から続く鋳造部門と機械工作部門を合わせ、年商3000万円ほどの町工場だった。機械はすべて天井で回っているプーリー(滑車)にベルトをかけて駆動させる旧式のもので、会社にはトラックもなく、荷物の運搬はリヤカー。それでも遠州地方の技術力の高い鋳物メーカーとして評判は高く、当時の一大産業である繊維産業の大手織機メーカーが主な納入先だった。
戦時中は工作機械部品を生産し、戦後になると織機部品や織機本体なども製造していた。また、社内に図面を引ける技術者は一人もいなかったが、職人たちの腕のみでお客様の信頼に足る製品を生み出していた。

転換期昭和40年代 − 50年代前半

4代目社長による「人」と「設備」の近代化

昭和40年代前半[1965−]

4代目社長による「人」と「設備」の近代化

昭和40年5月、4年という僅かな期間ではあるがトヨタ自動車工業に勤務し、「トヨタ生産方式」の生みの親である大野耐一氏より薫陶を受けた榎本鉞夫が4代目社長に就任。
職人たちが築き上げてきた伝統を尊重しつつも、当時でさえ若者に敬遠されつつあった鋳物業界の行く末を危惧し、会社の近代化に着手。他社からの人材スカウトに加え、新卒者の採用を開始した。当時大卒は採れなかったこともあり、入社後工業短期大学に通わせ、技術を社内にフィードバックさせるなどの改革を行った。機械工作部門の比率を高めようと、昭和44年からは設備の刷新にも取り組み、年に1~2台のペースで最新の工作機械を導入し始めた。

新たな事業への進出、初の自社商品の開発

昭和40年代後半[1970−]

新たな事業への進出、初の自社商品の開発

手掛けるのは主として大手メーカーの製図台部品だった。鋳物素材そのもので納めるのは半分ほどで、あとは加工して塗装を施す、あるいはそれをある程度組み付けるなどして納品していた。一社依存度の高い下請け事業ばかりでは、産業構造の変化を待つまでもなく、会社が生き残っていくのは難しいと考え、昭和45年にベアリング専用の測定器を製造。これが省力化機械ビジネスへの幕開けだった。この頃日本は高齢化社会に突入し、この先労働人口の減少による生産能力の低下が起こり得ると考え、『ものづくり日本を支える省人化・省力化設備メーカーとして国内で勝ち残る』を経営理念とし、事業転換に取り組み始めた。
その後も省力化機械の売上を伸ばし、“てんとう虫”の愛称で日本中から親しまれた国民車「スバル360」の足回り部品である、等速ジョイントの組立設備を製造するに至った。

一方で、製造業における自社の価値を更に高めようと、自社商品の開発を開始。
昭和47年に小型の卓上旋盤をつくり試験的にDIY店で販売したところ、確かな感触をつかみ、昭和50年に我が社初の自社商品「Amini(エミニ)シリーズ」を発売。これは卓上式小型旋盤の国産初となる製品であり、後のロングセラーシリーズ第1号だった。昭和51年に国際見本市に出品し海外取引も開始。同年には医療用機器(検眼用スタンド)の製造も始めるなど、仕事の幅が広がっていった。ちなみに「Amini」とは、Ace(エース)とmini(小型)をくっつけ、小型工作機械のエース的存在になりたいとの思いで名付けられた。

新たな歴史の幕開け

昭和50年代前半[1975−]

新たな歴史の幕開け

ある日の新聞で「浜松の職業訓練校の鋳造科に応募する若者がいなくなったため鋳造科が廃止される」という記事を目にした4代目社長は、若者が集まらなくなれば先は見えているとの思いと、オイルショックの影響で低迷する鋳物業界を鑑みて、昭和52年に創業より続いていた伝統業、鋳造部門の廃業に踏み切った。社内の職人たちからの反対は勿論、榎本で修行して独立した同業の経営者や他の工場で働いている職人たちからも、「親方の工場の火が消えるのは困る」という意見が続出したが、4代目社長は一人ひとりに真摯に説明し、時間をかけて納得してもらった。鋳造部門の廃業の翌年に赤字が黒字に転換した事実や、その後の会社の発展を見れば、まさしく英断だったといえる。
灯し続けたキューポラ(溶解炉)の火が消えたのは、榎本鋳造所の設立から76年目の出来事だった。鋳造工場の跡地には機械組み立て工場を建設し、昭和54年には本社事務所を新築。昭和55年に資本金を増資し、次世代に向け新たな歩みをスタートさせた。

発展期昭和50年代後半 − 平成

昭和から平成へ、欧州市場進出と新工場設立

昭和50年代後半 − 平成元年[1980-]

昭和から平成へ、欧州市場進出と新工場設立

卓上式小型旋盤に続き、卓上式小型木工旋盤、卓上式小型ボール盤を次々に発売した「Aminiシリーズ」は、北は北海道、南は九州まで各地で販売された。人気の秘訣は、海外製にはほとんどなかった1ミリ以下の穴をあけられる精度の高さ。当時の従業員が「日本一の出荷台数なのではないか」としばしば思うほどの売れ行きだった。昭和50年代後半、パソコンが台頭してくると、教育機関と提携し国内初のCNC(コンピュータ数値制御コントロール)旋盤を開発。学校機関への販売だけでなく、噂を聞き付けたドイツの商社から声がかかり、ヨーロッパ市場にも進出を果たした。
そして平成元年、現在本社を構える浜松市郊外のテクノランド細江に新社屋と新工場が完成。明るく清潔な工場、コンピュータによる生産管理システム、広い駐車場。年商13億円前後の当時にして、実に10億円近くの投資だったが、結果として次代を担う若くて優秀な人材が多数入社してくれるようになった。

100周年を迎え、更なる高品位高精度化を実現

平成元年 − 10年代前半[2000-]

100周年を迎え、更なる高品位高精度化を実現

平成に入り、ものづくりを取り巻く環境が変化していく中、当社も来るべき新時代に対応すべく様々な取り組みを行った。ソフト面では、品質を高めるべく平成9年に品質マネジメントシステムの国際規格ISO9001を取得。続く平成12年には同じく国際規格である環境マネジメントシステム、ISO14001を取得した。ハード面では、平成11年4月に第2工場を完成させ、多岐にわたる設備やシステムを導入していくことにより、更に高品位高精度な製造環境を整えていった。
そして平成13年4月には、ついに創業100周年を迎えるに至った。その後、経営理念も時代とともに少しずつ形を変え、従来の『ものづくり日本を支える省人化・省力化設備メーカーとして国内で勝ち残る』というベースはしっかりと守りつつ、現在の『省人化・省力化・省エネ機器の提供を通してものづくりに貢献する』とした。

CVNシリーズ、ハイブリッド3Dプリンターの開発。そして未来へ

平成10年代後半 − 現在[2005-]

CVNシリーズ、ハイブリッド3Dプリンターの開発

平成14~17年にかけては、経産省が推進する「地域新生コンソーシアム研究開発事業」を採択し、ナノステージ(1ミリメートルの100万分の1)の研究を行った。その技術を応用し生まれたのが、次世代のAminiシリーズとも言うべき「CVNシリーズ」。省エネ・省スペースで精密小物加工が可能な上に、家庭用電源の100Vで稼働できるという優れものだ。第一号を発売したのは平成20年。平成22年からは毎年シリーズ新製品を発表し続けている。意欲的な製品開発を行い、従業員も増え、事業規模が拡大していく中、平成23年8月には現社長である榎本晴康が5代目社長に就任した。
近年ではますます技術が発展し、小型加工の分野に「3Dプリンター」という新たな勢力が加わってきた。自社商品の開発に乗り出して以来あらゆる「小型工作機械」を手掛けてきた我が社も、この最新機械の開発をスタートさせた。そして誕生したのが、日本初となる『同時5軸制御ハイブリッド3Dプリンター』。主流である3軸方式に比べ複雑な形状を再現でき、熱溶解積層に加え切削加工も可能なハイブリッドタイプだ。新時代のモノづくりの現場で大いに活躍してくれることを見込んでいる。

未来へ

多くの「日本初」を誕生させ、発展を続けてきた当社は、
人を大切にする伝統を重んじつつ、これからも革新的製品の開発へ挑戦し、
経営理念通り「ものづくりに貢献する」企業として
成長し続けるべく、努力と研鑽を重ねていく。

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新製品開発の秘話